声とともに流れてくる、甘くて香ばしい香り。
「桜茶と、抹茶ジャム添えのスコーンでございます」
「桜茶?」
目の前に出された洋食器からは、微かに桜モチのような香りが漂う。だが、いわゆる梅こぶ茶のような和茶ではなく、見た目は紅茶だ。
「私はミルクを入れて飲むのが好きなんですよ。こちらのジャムも上質の抹茶が使われていて」
ウキウキとした様子で説明する幸田。恭しく給仕するメイドの女性。緩は本当に夢を見ているのではないかと頬を抓りたくなってしまう。
お嬢様。
なんて耳心地の良い言葉。まるでクラシック音楽の音色のよう。
お嬢様。そうよ、私は本来、そう呼ばれてもおかしくはない立場の人間よ。心清らかで素直で清純で、唐渓に屯う似非お嬢たちとは違うのよ。
香りに誘われてカップへ手を伸ばす。だがわずかに指先が触れたところで、背後の声にギョッとした。
「お久しぶりでございます。サヤカお嬢様」
途端に硬直する緩。
「どうされました?」
不思議そうに顔を覗いてくる幸田をヨソに、恐る恐ると振り返る。背後の部屋で、一人の中年女性がちょうど椅子に腰をおろすところだった。
「緩さん? 緩様? どうかなされました?」
「あ、いえ」
まだドギマギとする胸に手をあて深呼吸。
「あの」
心配そうな幸田の視線に、緩は観念したように口を開いた。
「あ、あの、ちょっと、知り合いが来たのかと思って」
一年の時の同級生にサヤカという名の生徒がいたのだ。
考えてみれば、このメイドカフェは金持ちのお遊び用だ。唐渓に通う生徒がやってきてもおかしくはない。
こんなところを誰かに見られたら。いや、それでも構わないのではないのか? ここは上流階級が楽しむ場所なのだから、ここに居るということはまさに貴婦人の証。ヲタクと呼ばれる男性に混じって写真撮影をしているワケではないのだから別に。いやでも、ここにいる姿を目撃されて、それが噂になって、それがモトで私の趣味趣向がバレてしまったとしたら、それはやっぱり。
桜茶を睨みつけながらあれこれと苦悩する緩の姿に、幸田はソッとメイドを呼んだ。
「申し訳ありませんけれど、閉めていただいて個室にしていただけません?」
「かしこまりました」
「あ、幸田さん」
慌てて顔をあげる緩に、幸田はニッコリと笑う。
「やはり人目は気になりますものね。他のお客様が行き来する気配を感じながらでは落ち着きませんし」
静かに襖やらが閉められ、世界が隔たれる。ただ一ヶ所、庭に面した世界だけが広がり、本当にどこかの邸宅の一室でお茶におよばれされているかのような気分。
誰にも見られていないという安心感を与えられ、緩はゆっくりとカップを手に取った。
少し甘い。
まだ少し冷たいが心地よい春の風。
カフェというより、サロンみたい。
メイド貴賓室。
素敵。
口元を意識しながらスコーンを一口。緩お嬢様は淑やかに春のひとときを堪能した。
そうよ、私は他の人たちとは違うのだから、だからあんな輩に屈してはいけないわ。
新学期の唐渓高校。二年生の教室。相変わらず冷たい視線を投げかける同級生たち。
こんな待遇に負けてはいけない。だって、私には瑠駆真先輩が付いているのですもの。
春のカフェで、近くで正装で向かい合う男女の姿を思い出す。タキシードの男性と二人、テーブルに乗り出すようにして楽しそうに一時を過ごしていた羽飾りの帽子の女性。幸せそうだった。
私も、瑠駆真先輩とあんなふうにお茶ができたなら。なんたって瑠駆真先輩は王子様なのだから、あのような場所に似合わないワケがない。
王子様。
心で呟くたび、想いは募る。
きっと、きっと私の想いは届くはず。だって、バレンタインのチョコレートを先輩に受け取ってもらったのは私だけなんだから。
その優越感が、今の緩を支える。
きっと、そのうち私の想いは伝わる。今はただ時期を待つだけ。
そう言い聞かせ、ペラリと文庫本のページを捲ろうとした。その耳に、雑音のような声が届く。
「ねぇ、聞いた?」
「なに、何?」
「三年の山脇先輩、ついにお相手を決めたのですって」
「えぇっ!」
緩は、思わず本を落としそうになった。
「それって、誰?」
「ひょっとして、あの大迫美鶴とかっていう蛮人?」
「それはわからないわ」
情報を持ち帰った生徒は少し息を弾ませながら、だが得意げに頬を紅潮させている。
「ただね、昨日久しぶりにあの黒人女性を見かけた生徒がいてね」
「あぁ、冬に校門近くとかで目撃されてた人ね」
「瑠駆真様の付き人じゃないかっていう人でしょう?」
「そうそう、その人を見つけた生徒が声を掛けたらしいのよ。山脇先輩の花嫁候補の話はどうなったのかってね」
「わおっ 大胆」
「そうしたらね、相手の人、一瞬言葉に詰まった後にね、花嫁なんて、最初っから探してはいないわって、曖昧に笑ったんですって」
「へ?」
「最初っから探していない?」
目を丸くする周囲に、だが女子生徒は早口で続ける。
「でもね、その様子が変だったって」
「変だった?」
「うん。なんとなくソワソワしてるって言うか、あれはゼッタイに何かを隠している様子だったって」
「へぇ」
「花嫁って言葉にも過敏に反応していたみたいだったから、絶対に何か隠してる。でも最近は校門には姿を見せなくなったし、山脇先輩が彼女と一緒に車に乗るなんて姿も見られなくなったでしょ。って事は」
「って事は?」
ゴクリと唾を呑み込む周囲。
「お相手はすでに決定していて、だからもう探す必要は無いって事なのよっ!」
「きゃぁぁぁっ!」
「ウソウソ、嘘よぉぉぉぉぉっ!」
どこをどうしたらそこまで飛躍してしまうのか。瑠駆真が聞いたら、呆気に取られて言葉も出ないだろう。いや、その想像力の逞しさに拍手くらいは出るかもしれない。
だが、緩は動揺した。そもそも、緩だって彼女たちに負けないくらいの想像力は持ち合わせている。それは、仮想が現実を凌駕してしまうくらいに強烈な能力。
瑠駆真先輩が、結婚する?
文庫本を持つ手が小刻みに震えた。
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